■ 国歌 (2006) - ぽんしゅう座

いったい何だ、この人を喰った“国歌”の視覚化は。冒頭のおばさんたちの世間話し(東北部だろうか。方言が混じっているようだ)の「何もなさ」は日常であり生活の平穏な“外見”だ。一転、閉じられた人工空間(内側)でアップテンポの音楽に乗せて延々と続く終わりなき“攻防”。

体育館という密閉空間。ネットをはさんだバトミントンのラリーが延々と続く。それは政党間の、市民と権力(議会、司法、軍)の、自国と他国(インドシナ近隣)の間に根づいてしまった終りの見えない攻防の象徴だろうか。ネットの下には何やらモノを選別しているのだろうか婦人の一群が。一方、軽快にエアロビダンス(『世紀の光』だ!)に興じる一団。よく観ると杖をついた足の不自由な女性(世間話しに興じていたA・ウィーラセタクンのミューズ、ジェンチラー・ポンパスだ)が喧騒のなかを彷徨っている。そんな緊張と弛緩をカメラに収めるテレビクルーの一群がいる。この混沌は外部に中継され、はたして衆人の目にさらされているのだろうか。

そして、映画『国歌』を主観となる神(王様?)の視線は、この“状況”を中心に据えて、ぐるぐると回りながら「国歌」が終わるまで“時”を消化し続ける。

(8月21日/イメージフォーラム)

★★★★